クンタの軽井沢日記

特別編

これは一部事実にもとづいた
フィクションです


左はランくん、一頭おいて右はナナ母さん(野犬時代)
 
   シンガポールの犬(その一)

寝ていたナナ母さんの耳がピクッと動いた。
暗闇の中に何か聞こえたからだ。
ここはオーチャード通りの南、キムセンロードからはいった工事現場
近くの藪の中。すぐ横には作業員の住まなくなった傾いた飯場がある。
いま、ナナ母さんのお腹の下には生まれたばかりの仔犬が6頭、
おっぱいを飲んだ後でスヤスヤ寝むっている。
父犬はこの辺りを根城にする群れのボスだ。
数頭の足音が近づいて来る。
お腹をすかせた別の群れの野犬たちだった。
父犬の群れから離れて子供を生んだナナ母さんの近くには、守って
くれる仲間はいない。
ここを嗅ぎつけられたら、仔犬たちが危ない。
腹をすかせた野犬の群れに仔犬は絶好の餌だからだ。
幸いにもここは風下で仔犬たちの臭いを嗅ぎつけられることはないだろう。
ナナ母さんは仔犬たちに気付かれないように立ち上がると、そうっと外に
出る。
そして充分に仔犬たちから離れると野犬の群れに向かって唸った。
「ここはあんたたちの来るところじゃないよ!」「あっちへ行って!」
野犬の群れがいっせいに振り返る。
どの顔もここ数日餌にありつけず、飢えて血走った目をしている。
中でも左の目から耳にかけて大きな傷跡のある、ひときわ獰猛そうな顔の
雄犬がナナ母さんに「おまえ一匹か、ほかの奴らはどうした?」と聞いた。
ナナ母さんはそれに答えずまた「あっちへ行って!」と唸った。
野犬の群れがひしひしとナナ母さんのまわりを取り囲む。
なんとかここで野犬たちをひきつけておいて、仔犬がいることを気付かれ
ないようにしなくっちゃ。
ナナ母さんの頭の中はそのことでいっぱいになった。
野犬の一頭が後ろからナナ母さんの左の後ろ足に咬みついた。
ナナ母さんも負けはしない。振り向きざまにその野犬の耳を食いちぎる。
耳を食いちぎられたやつは悲鳴を上げながら後ろに下がる。
一対一ならナナ母さんだって腹をすかせた野犬ぐらい撃退するのはわけは
ないことだ。
でも相手は数に物を言わせて襲ってくる。
今度は一度に二頭がナナ母さんのわき腹と後ろ足を咬み裂く。
それを合図に野犬の群れは一斉にナナ母さんを押し包んで、めったやたら
に咬みつきはじめた。
血の臭いが辺りを満たした。
もうダメ!仔犬たち!
ナナ母さんは薄れてゆく意識の中で最期の遠吠えをした。

        (その二に続く)

 
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